12/11: 私の考え
最近、つくづく思うことがあります。
「自分は曲がりなりにも憲法の勉強を20年以上もしているが本当に言いたいことが言えているだろうか」ということです。
「言いたいことが言えているかだって?表現の自由がこれだけ保障されている日本で言いたいことがいえないわけないだろ!」と突っ込みを入れられそうですね。
ですが、思っていても言えないことってあるものですよね。つまり、言いたいことを言わずに勝手に「自粛」してしまうのです。少なくとも私は今でもあります。これに関し、私がすごくみじめな思いをし、「今後は自分の言いたいことをいってやろう」と決意した私の個人的な経験をここでお話ししましょう。
2008年、私は早稲田大学のある教授のお誘いで「裁判員制度」についてのパネルディスカッションにパネラーの一人として参加させていてただきました。その教授には「裁判員制度」について早稲田大学で何回かレクチャーさせていただくなど活動の場を提供してもらっていました。
パネラーの一人に「人権派弁護士」として有名な五十嵐二葉さんがいました。話が「刑罰とは何か」といった話題になった時、五十嵐さんは「刑罰は国家による復讐ではない」という発言をしました。そして、「復讐という考え方は昔はあったかもしれないが今では古く、もうとるべきではない。今では修復的司法という考え方が有力で加害者と被害者が対話を繰り返する中で両者がともに苦しみを乗り越えていくべきだ」という持論を展開しました。
私は、その問題についてそれまで深く考えていたわけではなかったのですが、どちらかというと「刑罰は国家が、被害者やその遺族に代わって加害者に復讐をするものではないか」と思っていました。ですが、そこにいるパネラーの人たちも五十嵐さんの意見に同調しているようです。さらに、私をパネラーとして招いてくれた教授はバリバリの死刑廃止論者です。「きっとあの先生も五十嵐さんの意見に賛成なんだろうなあ」と思い、五十嵐さんに異を唱えるようなことはあえて言いませんでした。
話はこれだけです。ですが、あとで考えるとホントに情けなくなりました。
なぜ、あの時五十嵐さんに向かって「修復的司法などといっているがあなたは自分の家族が殺された時、犯人と向き合うことができるのか、実際は憎くて仕方がないという気持ちになるはずではないか。そもそも被害者と加害者がなぜ『対話』をし、『ともに苦しみを乗り越えて』行かなければならないのか」と私は反論しなかったのだろうか、また、死刑廃止論者の教授に対してもなぜ「あなたは自分の家族が理由もなく殺されたとしても死刑廃止論者でいられるのか」と聞かなかったのか(いや、聞けなかったのか)。もし、「こんなことを言ったら2度とパネラーには呼んでもらえないだろうな」という気持ちが少しでもあったとしたら、自分は憲法研究者としては失格なのではないか、と思ったのです。
軽い自己嫌悪に陥り、私は「今後は何があっても、誰に対しても自分が言いたいことをいってやろう」と心に決めたのです。
今でははっきりと「もし言いたいことをいってパネラーに呼んでくれないのなら、それで上等だ」と思っています。
★追伸→ちなみに私は以前は「人権派弁護士」が嫌いでした。今でもどちらかというと嫌いです。ですが、彼らからも学ぶことが多いとは思っています。
たとえば、上で書いたパネルディスカションに向けて刑事事件の取り調べについて勉強しました。そこで「警察の取り調べで自分がやってもいないことを『やった』といってしまう人もいる」ということを学びました。「自白」の後で真犯人が出てきて無実が明らかになったケースがアメリカで数多く報告されているのです(日本でも最近の菅谷さんがそうですよね)。
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